ギリコは屍になってしまった男の骸を見下ろし何か言う為に唇を動かそうとしたのだろうが、視線の先にうごめく醜悪をみとめ、口を閉じた。
別に仲間という意識があるわけではなく長く志を同じくしたわけでもない男がただ潰れて死んだだけだ。
「感傷かね」
水ぶくれのように表面がゆるくたわんだ複眼には月の光を照り返した自分だけが映っている。
「人間などというか弱き生き物がアラクネ様のお側に居ようと”思う”ことさえおこがましい」
化け物め、と口の中でギリコが呟いた。もう少し早く踏み込んでいれば、もう少し大きく腕を伸ばせば、この男は死なずに済んだ筈なのに。この化け物はそれをしなかった。見殺しにしたのだ。この男がアラクネに少々気に入られていた、たったそれだけの理由で。
「――――それとも恐怖かね、ギリコ」
ニヤア、と異形が笑ったらしい。己の名を呼ぶ奇っ怪にギリコはたじろぎはせず、静かに尋ねる。
「アンタ、アラクネ”様”に何故従う?」
それが恐怖からならば、忠誠が説明できないし、支配からならば、自立性がジャマをする。愛などはばかばかしく、共闘ならば主従関係になるわけはない。親子なわけもあるまいし。
「何故、だと?」
心底、不思議な物を見るように、妖がギリコの顔を覗き込む。
「お前はもう少し利口かと思ったが、やはり”人間風情”だな」
我々は蜘蛛の巣にかかったエサだ。アラクネ様に知識や情報という名の栄養をもたらす以外に価値などないのさ。当たり前の予定をそらんじるような口調のモスキートという名をもつ化け物は確かに笑った。
「――――忌々しいが、教えてやろう。ギリコよ、哀れでか弱き人間よ。アラクネ様は我々の神であり、王だ。ゆくゆくは世界をその手で牛耳られるお方である。故に彼女は、いつも独りだ。我々が居なくてはならぬ。我々は神の養分なのだ」
ギリコは化け物の理屈などわかりはしなかったが、耳を震わせる人間などより余程弱々しい声に魂を揺さぶられた。
「…ふうん」
「私が人間嫌いなのは、すぐ死ぬからだ。アラクネ様を置いてゆく、この男のように」
自分などよりよっぽど感傷的なその化け物は、それ以上なにも言わなかった。
ギリコはもう一度屍になった男を見る。そして口の中で呟いた。
『―――アラクネってのは、世界一の悪女だな。愛と利益と同情で男の魂を縛りやがる』